2019年4月号 特集①
歴史用語をじっくり学ぼう
群雄割拠、日本の歴史には幾人もの武将たちが登場します。日本史が好きな人の中には、お気に入りの武将がいるかもしれませんね。ところで、そんな武将たちがどのような政治を行い、国や人を治めていたか、調べてみたことはありますか? 調べてみると、彼らが様々な工夫をしていたことがわかって、面白いですよ。
今回は、教科書に出てくる用語のうち、武将たちの「政治力」がわかるものをピックアップし、イラストで解説します。「この人の治める国に住んでみたい」や「この武将には仕えたくない」と思う理由を考えながら、歴史の知識を深めてみましょう。
源頼朝の御恩と奉公
新しい武士の世の関係
1185年に平氏を壇ノ浦(山口県下関市)で滅ぼし、鎌倉(神奈川県)に幕府を開いた源頼朝。そんな頼朝が征夷大将軍となったのは1192年のことでした。
武士による新しい政治を始めた頼朝は、自分の家来になることを誓った武士を御家人にしました。将軍は、配下となった御家人たちに、彼らの先祖代々の領地を支配してもよいと認め、手柄を立てたら新しい領地を与えることを約束しました。これを御恩といいます。一方の御家人は、いざ戦が起こった時には、将軍のもとへ駆けつけることを約束しました。これを奉公といいます。こうして、頼朝は御家人たちと主従関係を結びました。また、幕府は、国の軍事や御家人の統制役である守護や、荘園や公領を管理し年貢を取り立てる地頭を、御家人たちに任じました。
鎌倉幕府は約140年間続いたけれど、頼朝の死後は、幕府の実権は北条氏が握るようになったよ。北条氏は、将軍の補佐役である執権の地位を独占するようになったんだ。
織田信長の楽市・楽座
商工業が発展した政策
尾張(愛知県)の織田信長は、力を持っていた戦国大名・今川義元を桶狭間の戦いで破りました。そして、1573年には将軍を京都から追い出し、室町幕府を滅ぼしました。また、信長は、長篠の戦いで鉄砲を有効に活用し、武田氏を打ち破りました。
長篠の戦いの翌年、信長は安土城(滋賀県)を築きました。そして城下に楽市・楽座令を出し、商工業の発展をはかりました。それまでは、物を売り買いする「市」には税(参加費)が課せられましたが、それを廃止し誰もが自由に出店できるようになりました。これを楽市といいます。また、有力な公家や寺院に保護された商人の組合「座」の特権も廃止したので、新しい商人たちが安土で商売できるようになりました。これを楽座といいます。
信長は、自分の領地にあった関所をすべて撤廃して、物や人がスムーズに行き来できるようにしたの。それまで関所で徴収されていた通行料もなくなったんだよ。
豊臣秀吉の太閤検地
基準を統一して全国調査
1582年に本能寺で明智光秀に襲われ敗れた織田信長。その信長の後継者として、1590年に全国統一を果たしたのが豊臣秀吉でした。豊臣秀次に関白の職を譲り、「太閤」と名乗った秀吉が行った全国的な検地を、太閤検地といいます。
田畑を測量し、収穫量を調査することを検地といいます。秀吉は、それまでばらばらだったものさしやますを全国統一しました。調査によってわかった収穫量の予想は、米の体積である石高であらわしました。武士の知行(領地)はこの石高であらわし、武士は与えられた石高に応じた軍役を果たすことが義務づけられる、主従関係が結ばれました。一方、検地帳に記された農民は、その土地を直接耕す権利が認められたかわりに、領主(武士)へ年貢を納めなければなりませんでした。
秀吉は、農民や寺から刀や鉄砲などの武器を取り上げる刀狩も進めたよ。検地や刀狩によって、武士と農民の身分の区別が明確になっていったんだ。これを兵農分離というよ。
徳川家康の大名配置
区別された大名たち
徳川家康が、秀吉の死後の豊臣政権を守ろうとした石田三成らを破ったのが、1600年の関ヶ原の戦いです。そして、1603年に征夷大将軍に任命された家康は、江戸に幕府を開きました。
将軍・家康から、1万石以上の領地を与えられた武士を大名といいます。また、それぞれの大名が治める領地や組織のことを藩といいます。家康は、大名の藩を決めるにあたり、徳川氏の一族である親藩や、古くからの家臣である譜代を、江戸から近い場所に置きました。これに対して、関ヶ原の戦いの後から(あるいは戦いの前後に)
家臣になった外様には、遠く離れた藩を配置しました。また、1万石未満で将軍直属の武士は、旗本や御家人といいました。このうち、旗本は将軍に直接会うこと(御目見え)が許されていました。
幕府は、大名を統制するために武家諸法度という法律をつくったよ。この武家諸法度に、大名が一年おきに領地と江戸を往復する参勤交代の制度を定めたのは、3代家光なの。