関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年10月号 わたしの勉学時代

おもちゃは、どんどん分解

 生まれは兵庫県の加古川市。幼い頃過ごした家は、田んぼの中にポツンと1軒建つドイツ風の洋館でした。父は化学会社に勤務する機械工学のエンジニアで、社宅としてあてがわれたのが立派なドイツ風の洋館だったわけですが、周囲の風景とのギャップと広々とした間取りともども、子ども心に強く印象に残っています。父は機械装置の設計だけでなく、技術導入のため海外に出向くなどもしていました。
 両親が年をとってからできた、姉と妹の間の男の子ということで、甘やかされて育ったと思います。おもちゃもたくさん買ってもらっていましたが、中の構造を知りたいという衝動に駆られてか、もらったはしから分解していましたね(笑)。

学生には「努力して、一歩一歩積み重ねることが大事」と話していますが、私自身は少しずつ暗記していくといった勉強は苦手でした(笑)。

「都会で学ぶため」の引っ越し

 小学生の頃、どの教科が得意だとか苦手だとか感じたことはありませんでした。あまり一生懸命勉強した記憶もありません。そんなのんびりした私の様子を心配してか、「都会で学ばせたい」との母の意向で、私の中学入学と同時に、わが家は神戸市の舞子に引っ越しました。あわせて母は私に家庭教師をつけます。今思えば、立派な教育ママですね(笑)。
 中学では、数学と理科がわりと好きで、英語は苦手でした。英語の先生の「文章ごと覚えなさい」とのアドバイスに「なるほど」と思いつつ、生来怠け者のようで、努力して一つひとつ覚えるといった勉強は苦手でした。
  中学時代の一番の思い出は、3年間、部活動でサッカーをしていたことですね。そしてもう一つ強く印象に残っているのが、灘高校を受験したことです。

灘高校での学び

 運にも恵まれ、灘高校に無事合格。灘高には優秀な同級生が大勢いて、大いに刺激を受けました。何しろ東大現役合格者が3桁を超えた学年でしたから、周囲にひっぱられるように勉強しました。先生方もユニークな方が多く、国語の橋本武先生もその一人でした。私は高校からですので、よく知られている中学の3年間かけて中勘助の『銀の匙』一冊を読み上げるという授業は受けていませんが、それでも橋本先生の授業はその〝自由さ〟で強く印象に残っています。たとえば、「3~4人のグループで調査研究をしなさい」というだけで、テーマは生徒に任せてくださいました。私のグループでは「狂言」をテーマに、みんなで京都の茂山千五郎氏(11世)を訪ねるなどしました。
 数学の宮原繁先生もよく覚えています。問題が解けなかった生徒の頭を出席簿でコツンと叩くような厳しい先生でしたが、宮原先生の授業は本当に楽しかった。公式を暗記してではなく、理解して使えるようになりました。最初は大変でも、一つ目のハードルを越えると、後はスーッと流れるように理解できるようになりました。

〝学びたい学問〟との出会い

 1968年4月、東京大学に現役合格。ただ、時代は大学紛争真っただ中です。翌1969年1月が、*1東大安田講堂事件ですから、入学後1年くらいはストライキで、勉強どころではありませんでした。とは言え、1969年の東大入試は中止となりましたから、浪人していたら東大には入れなかったわけです(笑)。
 教養学部からの2年次の進学振り分けでは、希望通り、工学部機械工学科に進めました。父をはじめ私の周囲には機械科出身者が多く、私自身、幼い頃から物の仕組みに興味があったので迷うことはありませんでした。
  決して真面目な学生ではありませんでしたが、面白いと感じた講義にはきちんと出ていました。たとえば、甲藤好郎先生の講義には感銘を受けました。そもそもの基本的な学理を説明した上で、「だから、こうした数理モデルが成立し、実験結果を合理的に説明できるんだ」と、非常にロジカルかつスマートに教えてくださいました。藤井澄二先生の授業にも圧倒されました。先生は資料など一切見ないで、黒板にサーッと数式を書いていかれるんですが、背後の物理現象についての説明はもちろん、この式の意味を説明し、その式から導かれるやり方でトラブルを解決したといったふうに、理論と実社会のつながりを実感できる授業をしてくださいました。大学入学後の抽象的な数学になじめなかった私は、藤井先生の数学にうれしいショックを受けました。
 機械工学の「最終的に製品化できてこそ」といった実践的な部分に惹かれていた私にとって、甲藤先生や藤井先生の講義は魅力的でした。そこで、甲藤先生についておられた庄司正弘先生の研究室に入りました。庄司先生にとって私は最初の学生だったこともあり、かなり自由にさせてくださいました。旋盤などを使って実験装置を作り、実験、計測、解析……とするうちに研究がどんどん面白くなり、「大学院に行こう」となりました。

*1学生が本郷キャンパス安田講堂を占拠、警視庁が1月18日から19日に封鎖解除を行った。

東大の甲藤先生や藤井先生の数学には「美学」のようなものがあり、私もそんな世界に加わりたいと強く感じました。

横につながる醍醐味

 大学院では、熱工学について研究しました。卒業後は、鉄鋼関係の企業に就職するつもりだったのですが、大学院での指導教員から「講師として研究室に残らないか」と声をかけていただきました。父からは「鉄鋼業界は給料がいいぞ」と勧められ、先生からは「給料は安いですよ」と言われましたが、自由に研究できる方ということで、講師として大学に残る道を選びました。
  講師となって入った講座は流体機械をテーマとしていたので、熱と流体力学について研究してきた私にはちょっとした異次元でした。ただ、子どもの頃から自分のしたいように動いていましたので、自分なりに研究を進めたり、一人で思考の散歩を楽しんだりしていました。すると、講座の先生から「*2キャビテーションをテーマにしてみないか」との提案がありました。「面白そうだな」と思った私は早速、このテーマに早くから取り組んでおられた東京大学や東北大学の先生方に教えを乞い、勉強させてもらいました。すると学ぶほどに、私がそれまでしてきた研究がいろいろ使えることがわかってきました。異分野から来た私の視点はちょっと違っていたようで、新たな研究が進展することになりました。
 その後、ドイツのアーヘン工科大学に客員研究員として留学。そこでも、私のそれまでの研究がリンクし、どんどん面白くなっていきました。また、同時期、ドイツの航空機製造会社が、衝撃波で腎臓結石を壊す医療機器を開発していて、私の研究が彼らともリンクするところがあり、学生も交えてずいぶん議論を重ねました。
 このように、異分野を研究してきた工学者同士、あるいは医師と工学分野の研究者が議論し互いにアイデアを出し合うと、研究はどんどん新たな展開を見せるのだということを身をもって感じました。
 それだけに、理工系総合大学である本学はもちろん、多様な研究が行われている組織においては、新たな境地を開くためにも、分野間の垣根を低くして、議論、連携の機会を大切にし、時には、自分とは違う領域に踏み込んでいって、どんどん横につないでいくといったことが必要だと感じています。

*2液体の流れの中で圧力変化により短時間に泡の発生と消滅が起きる物理現象。空洞現象ともいわれる。

上:大学院時代の松本先生。
下:助教授になりたてでキャビテーションの研究に着手した頃の松本先生。

今、必要とされている力

 今、社会が必要としているのは、「正解のない問題を解く力」です。そういった力を、正解が用意されている試験というフィルターにかけながら、育てていかねばならない──これってものすごく難しいことですよね(笑)。
 関塾生の皆さんには、まずは「自分を偏差値だけで評価しないでほしい」とお伝えしたい。その上で、広い視野のもと、寄り道してあれこれ考えられる人であってほしいと思います。つまりは「教養を身につける」ということだと思うのですが、そうして習得した知識と多様な考え方とを組み合わせながら〝新たな学問の高み〟にたどりつける人であってほしいと思います。

理科・算数のワクワクを伝えます!

 東京理科大学には381もの研究室があり、宇宙、防災、AIなど様々な分野の最先端の研究が行われています。すべての研究の原動力となるのが、未知なる未来への好奇心・挑戦心です。そんな東京理科大学ならではのワクワクを中高生の皆さんにも垣間見せてくれる講座や施設についてご案内しましょう。たとえば、月に1度開催される※『坊っちゃん講座』では、各分野の一線で活躍する大学の研究者が、最新の研究をわかりやすく解説。神楽坂キャンパス内にある※『数学体験館』では、算数・数学を五感で体感できる楽しい展示物がたくさん! 東京理科大学のWEBサイトにも様々なコンテンツが盛りだくさんです。ぜひのぞいてみてくださいね。

※開催日時、開館時間については、ホームページをご覧ください。

神楽坂キャンパス 近代科学資料館
(地下1階に「数学体験館」があります。2019年6月野田キャンパスに、「なるほど科学体験館」もオープンしました)